2.臼井エリア
 
 (1)臼井城砦探索コースの紹介
  臼井城砦探索コースのルート図  : コース距離=約12.0㎞


  臼井城砦探索コースの推奨スポットの紹介
   (注)紹介するスポット番号は、上記地図のポイント位置に対応しています。また、写真をクリックすると拡大できます。  
①京成臼井駅  ②臼井駅前のくすの木 ③忍台城跡 ④王子台砦跡
(一夜城跡)
 ⑤神明社
八幡台鎮守の八幡社にあったくすのきの大木は枯れたが、村人の崇拝が特に強かった為、昭和56年6月新しいシンボルとして臼井駅前に新たに植えました おしのだい城跡。100m×60mの郭、空堀、土塁、土橋、虎口等がありました。現在は全く面影はありません 臼井城の砦の一つで、上杉謙信が臼井城攻めの時築いた砦で、100m×70mの郭、腰曲輪、楼台、空堀、虎口等がありました。現在は全く面影はありません 伊勢神宮と同様に天照大神です。社の屋根の堅魚木(かつおぎ)は女神を祀りますので偶数で6本。女神が祀られているので、千木(ちぎ)は本来内削ぎであるべきところを男神を祀る外削ぎに
⑥旧成田街道三叉路の道標等 ⑦光勝寺 庚申塔 ⑧光勝寺臼井氏供養塔 ⑨瓢箪塚古墳 ⑩光勝寺の閻魔大王
(旧本堂)
三叉路には道標2基、六十六部供養塔1基があります 手足足首に紐飾りが。石工の工夫が光っています 臼井氏初代常康から5代祐胤魔迄の菩提寺。宝篋印塔、五輪塔等があります 小型の前方後円墳。石枕が出土 小野篁作と謂われている。首が印旛沼に流れて来て、村民が下部を作り青蓮寺(稲荷台4丁目、現在の井野 千手院の別名)に安置したが、同寺が弘化3年(1846)火災になった折、首だけ取り出し、その後光勝寺に再安置された
⑪光勝寺からの印旛沼眺望 ⑫光勝寺新本堂のご本尊 ⑬姫の宮神社  ⑭印旛沼眺望 ⑮円応川 
鐘楼の後から印旛沼が遠望出来ます ご本尊は阿弥陀如来像、脇に地蔵尊。合掌 見落としそうな場所に社があります。女性の守護神、縁結びの神様です。境内には男根が。佐倉花火大会は、当初は樋之口橋納涼大会、次に印旛姫の宮奉納花火大会、その後頻繁に名前が変わりました 高台から望む印旛沼は美しい風景です。椅子でもあればゆっくりできるのですが 川に蓋がされていますが、意外と忘れがちな川。川沿いには廃寺行蔵寺が。生谷から印旛沼に流れ込んでいます
⑯宿内(しゅくうち)砦跡 ⑰宿内砦跡より眺望 ⑱道誉上人墓  ⑲長源寺 ⑳臼井町の道路元標
   
臼井城を取巻く6砦の一つ.。ユズリハの群生やイヌビワも植生。土塁、曲輪、切通しも残る静かな公園です。その昔長楽寺がありましたが、火災により台地下に移りました 印旛沼の遠望がよいです。天気の良い日は筑波山も望めます。臼井宿の宿場の家並みも見られます。雑草が生えていなければ椅子に腰かけて印旛沼や臼井の町並みをゆっくり眺めたいものです 増上寺9世管首の道誉上人の墓。千葉小弓城主原胤栄(像は上座 宝樹院に)に招かれ、小弓に大厳寺を開く。胤栄が臼井城主の折臼井に招かれ長源寺を創建。お墓の近くに大木の杉があった為”お杉さん”とも呼ばれました 元は宿内公園内にありましたが、火災により天明元年(1781)現在地へ。元亀元年(1570)創建。浄土宗。ご本尊は阿弥陀如来。本堂左手前には11面観音像、地蔵尊、双体石仏、武蔵型板碑があります。明治6年には臼井尋常小学校が開校。明治11~22年迄臼井村役場がありました 明治6年各府県毎に「里程元標」を設け陸地のみちのりの調査を命じました。大正11年に各市町村に設置されました。形状は全国統一されています
㉑新坂 ㉒新坂の常夜燈跡 ㉓妙傳寺 ㉔清正(せいしょう) ㉕妙傳寺よりの眺望 
 
明治19年(1886)4~,5月に成田山新勝寺が中心となり十善講の人達が道路修理を行いました。鹿島神社、成田山参りにこの成田街道新坂を通りました。道幅は3m弱 成田山講中により大津屋離れ敷地内に寄進、文政5年(1822)5月吉日建立。跡臼井駅世話人として鈴菜屋脇田九兵エ、大津屋桜井儀右エ門、太田屋太田武右エ門の名が刻まれているとのこと。常夜灯がここに無く残念です。 日蓮宗 弘安6年(1283)創建。松戸本土寺 日傳上人開山。中興祖 日運上人と青菅村 設楽半左エ門により宝暦7年(1757)建立 地元の檀家により加藤清正像が寄贈されたと言われています 臼井宿の眺望は飽きません。椅子があるといいね!
㉖大名宿町並み ㉗弁財天 ㉘紺屋の工場跡  ㉙紺屋の工場内紡錘器歯車 ㉚登城坂跡 
   
大名宿一帯の町並みは昔の面影は全くありません。臼井城の城内に成田街道があります。何故でしょうか?佐倉城と臼井城の年代差。城から街道を行き来する人達の監視を目的としていました 紺屋ヨシダ手前を左折、大きな鳥居の奥には小さな祠があります。少し本道から外れますが、成田山参りの途次にお参りされたようです 臼井木綿」の3軒あった織物工場(吉田こうや、吉田権仁エ門、大谷要造どん)の吉田こうや跡。建物内には織物用の大きな歯車が残っています。農家の作業着=吉田木綿、縞木綿=吉田義木綿、裏地木綿=大谷木綿等を織っておりました。明治2年吉田こうやの初代が染色業を始めたのが始まり、昭和46年廃業。他2社は明治50年閉鎖・廃業。㈱ヨシタは昭和28年設立 建屋の梁の材質・形状と合わせ紡錘器歯車は、産業遺産として歴史的価値があるものと思われます。数百人の女工さんがこの工場で働いていたのでしょう 大手門への道とは異なり、実蔵院横から武士が登城する坂
㉛星神社 ㉜天満宮 ㉝太田圖書の墓 ㉞土橋 ㉟臼井城址跡 
   
祭神は天御中主命(あまのみなかみのみこと)で志津城と称されている天御中主神社と同じです。千葉氏3代千葉介常兼の三男臼井六郎常安が承久年間(1113~1118)臼井庄に居を構えた折に城の鬼門に創建しました。屋根等の月と太陽は千葉家の象徴 臼井氏中興の祖臼井興胤(幼名竹若丸)が宇佐八幡宮、大宰府天満宮に戦勝祈願し、足利尊氏に従い筑前国 菊地武時と戦い勝ちました。その功で尊氏から臼井を本領され城主となりました。暦応元年(1338)印旛、葛飾郡総鎮守として臼井八幡宮を創建。併せ城内に大宰府天満宮を勧請  室町中期古河公方足利氏と関東管領上杉氏との抗争。文明10年(1478)太田道灌は公方方千葉孝胤を柏の戦いで破り、孝胤が臼井城に逃げ込んだのを文明11年 太田圖書と千葉自胤が臼井城を包囲した。防護が厳しく半年に及ぶ戦いでしたが結果的に臼井城陥落。この時太田圖書が亡くなりました 臼井城二の丸と本丸を繋ぎ空堀を跨ぐ橋を土橋と言います。本来の土橋はそのまま埋め戻されています 平安時代末期から鎌倉初期下総国を支配していた千葉氏の一族臼井六郎常安が居を構えた頃に築城。暦応元年(1338)臼井興胤が一族の志津氏に奪われていた城を取り返し以降臼井氏の居城としました。臼井氏から生実の原氏、里見氏等と城主が変わりましたが、秀吉の小田原北条氏責めにより北条方についていた臼井城も落城。家康の関東入府に伴い酒井家次が3万石で城主に。慶長9年(1604)家次の高崎転封に伴い正式に廃城となりました
㊱臼井城址からの印旛沼眺望 ㊲円応寺 ㊳円応寺の石仏 ㊴円応寺十王堂 ㊵岩戸五郎胤安の墓 
   
印旛沼の遠望、臼井宿の町風景が一望できます。初日の出、春は桜、夏は花火等地元の人に愛されている公園です 臨済宗妙心寺派 ご本尊は釈迦無尼仏 歴応元年(1338)臼井氏中興の祖臼井興胤が創建。佐倉の苔寺とも謂われています。4代重職玄海と臼井秀胤とで臼井八景を作り、その一つに選ばれました。観光目的で境内に入るのは極力避けて下さい  2体の石仏が一体に。一見ヒンズー教風石仏にも見えました。何の仏様なのでしょうか? 十王堂の天井絵も又立派なものです。十王とは閻魔王とそれをめぐる9人の王です  臼井城の支城の岩戸城の藩主。興胤幼少時の竹若丸の折志津藩主に城を追われました。岩戸五郎が支援し竹若丸を鎌倉建長寺に逃しました。この折岩戸五郎は乳母共々なくなりました。成人し興胤になった時その折の感謝の為にお墓を建てました
㊶洲崎砦跡 ㊷洲崎砦からの印旛沼眺望 ㊸川口宗重の墓 ㊹八幡社 ㊺くすの木
印旛沼に対峙150m×100mの単郭構造で土塁がありました。東側は土塁採取で消滅。廃寺の松雪寺がこの砦にありました  季節により印旛沼が望めます。ただ竹やぶが切られていればですが  臼井村地頭の川口茂右衛門尉宗重の墓。青菅村地頭川口宗勝の子。承応3年(1654)68歳で亡くなりました  臼井氏中興の祖臼井興胤(幼名竹若丸)が宇佐八幡宮、大宰府天満宮に戦勝祈願し、足利尊氏に従い筑前国 菊地武時と戦い勝ちました。その功で尊氏から臼井を本領され城主となりました。暦応元年(1338)印旛、葛飾郡総鎮守として臼井八幡宮を創建。境内左奥には疱瘡神供養塔が多数並んでいます。1800年代は疱瘡がはやり多くの子供達が亡くなりました。その供養塔です  拝殿左側のくすの木。赤松宗旦「利根川図志」にも書かれています。成田街道からこの大くすの木が見えたそうです。明治6年枯れましたがご神木として保存されています。興胤が八幡社を創建した時に植えたとも言われています
 ㊻仲台砦跡 ㊼杉の小道  ㊽道標  ㊾実蔵院  ㊿明倫中学校跡 
臼井城砦(王子台、稲荷台、宿内、洲崎、仲台、手繰砦)の一つ。八幡台2丁目の下部140×100m単郭構造。臼井久胤の居城とも言われています。砦とした場合何に対する砦なのでしょうか?南方面の防御? 八幡台3丁目から実蔵院、臼井城の抜け道近くを通るこんもりした杉の小道です 杉の小道と登城坂の交差点近くの八幡社にあるくすの木を目的地とした”くすの木道標”があります。上部には刻像の子安観音。土台には 「左ハくすのき右ハさくら」と刻字 安政4年(1857)8月造立の道標です 真言宗豊山派、本尊「は不動明王。江戸時代初期の火災で文献はありませんが創建は建徳年間(1370~1372)とのこと 明治36(1903)~昭和17年(1942)迄実蔵院境内裏側にあり、地域の青少年教育や農村振興に大きな役割を果たしました。佐倉市は勿論八千代市、印旛村等からも通学した人達がご年配ですが健在されています。写真でみると大きな学校のようです
<51>実蔵院の石仏 <52>大名宿T字路道標 <53>旧成田街道かぎ型道 <54>薬師堂道標 <55>手繰坂上の庚申塔
本堂前に西行法師石像、山門前に如意輪観音石造群等があります。山門前左前には如意輪観音や同観音道標等があります 旧成田街道と大名宿のT字路には「(正面)右成田みち、(右面)左江戸みち、(左面)西さくら道」と刻字された道標があり、文化3年(1806)正月28日造立。新吉原仲三田宿太田屋、伊勢屋半重良が建立したようです 臼井城下町防御の為にかぎ型屈折した街道を見る事が出来ます 旧成田街道から左に薬師仏(妙覚寺)への薬師堂道標。ゴミ集積場の横の大きな石ころが道標です。明治8年(1875)4月造立の「薬師仏 北是先凡3丁」と刻字 正徳5年(1715)11月造立の庚申塔。明治初年に廃寺になった地蔵堂跡にお地蔵様と並んで立っています
<56>手繰坂上の地蔵尊 <57>手繰坂 <58>手繰砦跡 <59>長谷津の弁財天 <60>妙覚寺の雷電碑
首を切られた地蔵尊。明治初年の廃仏毀釈時に首を切られました。かつては廃寺の地蔵堂境内にあった地蔵尊です 別名 弥右衛門坂とも謂われたり田久里坂とも謂われる旧成田街道の難所です(新坂も同様)この為明治22年(1889)に現在の成田街道(タイヨー前)が開設されました。西郷隆盛も関係した新道です 臼井城の砦の一つ。手繰坂に近い砦ですが土地整備で地形が変わっています。110×70m単郭の砦で承久2年(1114)臼井常康が築いた砦のようです。南~東方向の防御でしょうか? 妙覚寺への道すがらの先に弁財天があります。大きな鳥居の奥に祠があります。多くの人達が成田街道の行き来にこの弁財天を拝んでいきました。 雷電家族のお墓がある廃寺浄行寺を親寺として引き取った関係もあり、妙覚寺に雷電碑があります
<61>雷電手形 <62>雷電親子の墓 <63>廃寺浄行寺前疱瘡神祠 <64>常楽寺 <65>剣の石塔
廃寺浄行寺が妙覚寺に引き継がれた為、手形も妙覚寺に建てられました 廃寺 浄行寺跡。雷電の墓は長野県東御市大石家墓所、赤坂 報土寺、松江市西光寺等計4ヶ所あります。家族も一緒にあるのはこの地のみです 廃寺浄行寺跡入口の祠には疱瘡神が祀られています 真言宗豊山派。創建は歴応元年(1338)本尊は不動明王。岩戸五郎胤安の持仏の不動明王と竹若丸を駕籠に入れ臼井城を抜け出し鎌倉に逃げました。この時のご利益と岩戸五郎の忠節に対し、竹若丸後の興胤が常楽寺を建てました 嘉永3年庚戌(1850)10月造立の剣の石塔です。不動明王も手に持っています
<66>臼井尋常小学校門柱 <67>雷電公園(古峯稲荷子安) <68>雷電寄進階段 <69>南向き道祖神 <70>廃寺光明寺の石仏2基
明治6年長源寺に設立され、その後、宗徳寺、そして臼井御屋舗にありました。その時の門柱です。その後は現在地に移動 通常は稲荷神社と言います。大木の下に多数の稲荷社があり、その後子安、三峯、古峯神社の祠が建てられました。明治初期には既にあったようです。戦後は競輪場も出来たそうです。古くから市が立ったり相撲大会が開催されました 急な階段は雷電の寄贈と言われています。公園内には寄贈を記す新しい碑が立っています 南向き道祖神。他の道祖神同様足の病を治すので、治ったら3本足の大根をお礼に奉納 左側の座像は寛文5年 (1665年)の菩薩像、右の立像は寛文12年(1672年) の如来像と推定され、どちらも将軍家綱の時代に建立 されたもの。光明寺は、真言宗 実蔵院末寺 天明6年(1786)と記録に実在、明治前に廃寺になる
<71>北向き道祖神 <72>稲荷台砦跡 <73>京成臼井駅
北向き道祖神。他の道祖神同様足の病を治すので、治ったら3本足の大根をお礼に奉納 臼井城の砦の一つ。八幡台2丁目の下の方。現在は住宅地に 京成臼井駅
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